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'93年結成。Liam Gallagher (vo)、Paul “Bonehead” Arthurs (g)、Paul McGuigan (b)、Tony McCaroll (ds)の学校の友人4人で最初はThe Rain という名でバンド活動を行なっていたが、Inspiral Carpets のローディーをやっていたLiam の兄であるNoel Gallagherが、完全にバンドを掌握できること、全ての曲に携わることを条件に後に加入。それと同時にバンド名をOasisに変更した。'93年のことである。
その後小さなライヴハウスでのギグを重ねる中、レーベル・クリエイションの総帥Alan McGeeに出会った。その出会い方がなんともOasisらしい。こんな逸話がある。
ある日Alan McGeeがロンドンのとあるライヴハウスに行った時の話である。彼は自分のレーベルのバンドを観にいっていて酒を飲みながらそのバンドの出番を待っていた。そんな時にライヴハウスの店主からある相談をされた。「裏でライヴをさせろって騒いでる奴らがいるんだ。どうすればいい?」というその内容にAlan McGeeは「俺が責任もつから、やらせてみれば」と答えた。その時それを聞いたそのバンドは、天井に頭がぶつかるんじゃないかという程ジャンプを繰り返して喜んだ。そして、いざそのバンドの出番。演奏が始まりその場に居た12人の観客(観客が42人だったSex Pistolsのマンチェスターでのライヴよりも少ない!)を含めた全ての人が息をのんだ。その中でも最も興奮したのは何を隠そうAlan McGeeだっただろう。彼の言葉を借りれば、そのバンドの「ギターは見事で、ヴォーカルはものすごい存在感」を放っていた。Alan McGeeはその場で契約を申し込んだが、そのバンドのギタリストにデモ・テープを渡され、それを聴いた後に気に入ったら契約してくれと言われた。デモ・テープを聴いた後もAlan McGeeの考えは変わることなく、いや益々その思いは強くなった。そして実際に契約を結んだ。そのバンドこそ、もちろん、Oasisである。
'94年にクリエイションから1stシングル「Supersonic」をリリース。好調なチャート・アクションを見せる中、「Shakermaker」「Live Forever」を立て続けに発表。特に「Live Forever」は大ヒットした。それから1ヶ月後の94年8月に“Tonight I'm Rockn' Rolll star”(「Rock Star」)で幕を明ける1stアルバム『Definitely Maybe』がリリースされた。本作はチャートで1位を獲得する大ヒットを果たし、各国メディアから大絶賛のうちに迎えられた。英国メディアは、その頃全英を覆っていたブリット・ポップのど真ん中をつく作品として、軒並み大絶賛されいくつもの年間最高アルバムという称号を本作に与えた。しかし、好事魔多し。この頃から兄のNoel Gallagher(Lg)と弟のLiam Gallagher(vo)の緊張状態がバンド内で目立つようになってきた。インタビューなども一緒にするのを拒否するようになっていた。それが最も大きな形となって表れたのが、同94年の秋に行われた米国ツアーの時である。『Definitely Maybe』での成功を受けてのそのツアーで、なんとNoel Gallagherがバンドから去ってしまったのだ。バンドのメイン・キャラクターの脱退により色めき立ったが、すぐにNoelはバンドに復帰。英国に帰国し、同94年12月にチャートの2位まで上り詰めたシングル「Whatever」をリリースした。
'95年の初めより米国プロモーションに力をいれるようになった。シングル「Live Forever」がMTV、ラジオなどで大量オン・エアーされ、その結果チャートで2位にまで上り詰め、さらにアルバム『Definitely Maybe』もゴールドを獲得した。米国での好評だったツアー後、英国にてシングル「Some might say」のレコーディングを開始した。この70年代英国モッズの雄Small Facesに影響されたシングルは95年5月にリリースされた。その直前にバンド内で大きな出来事が起こった。技術不足と言う理由でTony McCaroll(ds)が解雇され、変わりにAlan Whiteが加入したのである。リリース後、シングル「Some might say」はチャートで1位を獲得し、それに伴ないそれ以前に発表したシングルもチャートに再びランク・インするという現象を引き起こした。その後夏の間をアルバム・レコーディングに費やした。2ndアルバム『(What's the Story) Morning Glory』である。'95年10月リリース。本作のセールスは天文的な数字を記録し、結果的に全世界でセールスは1400万枚にも達した。今のところのOasisのアルバム・セールスとして最大のものである。それは英国アルバム・セールス史上第2位の記録でもある。
'96年になり米国チャートでも『(What's the Story) Morning Glory?』は大躍進し、最高位4位を記録した。ヨーロッパ、アジアでも軒並みチャートの上位に食い込むアクションを見せた。そして同'96年8月Oasisは英国での屋外ギグの記録を破る超大型ライヴ・パフォーマンスを行なう。今や伝説ともなっているネブワースである。The Prodigy、Manic Street Preachers、Ocean Color Scene、The Charlatansなどと開催したこのギグは、2日間で25万人の観客を集めた。その後バンドはサード・アルバム『Be Here Now』のレコーディングに取り掛かった。前2作を急いで制作したことを教訓に、本作には数ヶ月の歳月がかけられ、'97年の春に完成した。先行シングルとして「D'You Know What I Mean」を7月にリリースし、8月にアルバム『Be Here Now』を発表。英国では当然のようにチャート1位を記録し、米国チャートでも2位を獲得した。全世界で700万枚のセールスを記録。前作の約半分ではあるが、驚異的なセールスには変わりない。その後翌'98年3月まで続くツアーを敢行。その中で12月にウェンブリー3日連続公演を成功させた。数ヶ月の休養を挟み、同'98年11月にBサイド・アルバム『Masterplan』をリリースした。米国チャートで最高位51位。
'99年4枚目のアルバム『Standing on the Shoulder of Giants』のレコーディングを開始。翌'00年2月にリリース。このアルバムにはOasis史の歴史的意義がある。なぜなら、それまでアーティスティック面でNoel Gallagherが全てを取り仕切っていたという大原則が、このアルバムで崩れたからである。M6「Little James」はLiam Gallagher作だ。この作品の出来はどうであれ、オリジナル曲でNoel Gallagher作以外の曲がOasisのアルバムの一角に身を置いたということは、Oasisを語る上でとても重要なことである。年月が経てば経つほどその重要性が増すだろうと思う。表面的なものとしてもその間バンド内で大きな動きがあった。ギタリストのPaul “Bonehead” Authurs、ベーシストのPaul McGuiganの二人が、家族との時間を大切にしたいという理由でバンドを去ってしまったのである。(おそらくクビ)しかし、Noel Gallagherは何事もないようにこう言ってのけた。「The BeatlesからPaul去るのとはわけが違う」。その言葉が表すようにあっさりとアルバム発表後に、元Rideのギタリスト、Andy Bellと元Heavy Stereoのギタリスト、Gem Archerをそれぞれベーシスト、ギタリストとしてそれぞれ迎え入れバンドの態勢を整えた。この時点でオリジナル・メンバーはNoelとLiamのGallagher兄弟だけになった。
同'00年の秋にバンド初となるライヴ・アルバム『Familiar To Million』をリリースした。これはワールド・ツアーの成功を記念してのもので、ハイライトは'00年の6月に行われたウェンブリー・スタジアムでの録音である。翌'01年には、フジロック・フェスティバルに出演。'02年になって、5枚目のアルバム『Heathen Chemistry』の制作に取り掛かかり始めた。先行シングルとして「Hindu Times」を発表。アルバム世界同時発売を目指しレコーディングは続けられ、同'02年6月にリリースされた。このアルバムは前作『Standing on the shoulder of giants』の特徴である“Noel Gallagher以外の曲”率がそれに比べて飛躍的に上がっている。前作が「Little James」一曲だったのに対し、本作は全11曲中5曲までが他のメンバーによるのもなのである。内訳は、Liam Gallagherが「Songbird」「Born on a Different Cloud」「Better Man」の3曲、Andy Bellが「A Quick Peep」の1曲、Gem Archerが「Hung in a Bad place」の1曲である。計5曲。依然としてNoel Gallagherの曲が締める割合は高いが、間違いなくOasisがアーティスティックな面でも“バンド”となる過程にいることを示している。その後世界ツアーに出たが、8月の米国ツアー中にNoel Gallagher、Andy Bell、Jay Darlington (サポート・キーボーディスト)が交通事故にあってしまった。大事には至らなかったが、米国での3公演をキャンセルすることになってしまった。9月になり日本公演のため来日。12月に訪れたドイツ・ミュンヘンでイタリア人と喧嘩騒ぎも起こしている。Liam Gallagherはその喧嘩で顔面を殴られ、歯を治すのに何百万もの大金を要したらしい。翌'03年、シングル「Songbird」「Don't go away」をリリース。
'03年はほぼ一年間休養の年だった。Noel GallagherがThe Standsのプロデュースをしたとか、Richard Ashcroftのギグをサポートしたなどが話題に上るくらいであった。'04年になり、Death in Vegasをプロデューサーに迎え6枚目のアルバムのレコーディングに入った。これは'02年にLiam Gallagherが彼らのアルバム『Scorpio Rising』に参加したことがきっかけだったのであろう。その時Liam Gallagherがヴォーカルをとった曲「Scorpio Rising」が、図らずも彼のヴォーカルがどんなコラボレーションにあっても色褪せない圧倒的な存在感を示す素晴らしいものであるということを証明するのであったために、そのタッグは非常に興味深いものだった。しかし、ウェールズで行なわれた3週間のレコーディングは彼らにとって大きな成果をもたらす物ではなかったようだ。結局Death in Vegasとのコンビを解消し、セルフ・プロデュースでのレコーディングを再開した。さらにその後The Thrillsとの仕事で知られるDave Sardyをプロデューサーに抜擢してアルバム制作は続行された。アルバム制作と平行する形で同'04年6月、グラストンベリーに初日のヘッド・ライナーとして出演。この時期再びメンバー脱退に直面した。Alan White (ds)である。理由は不明だが、Gallagher兄弟から絶大なる信頼を置かれていた、という事実を考えると何とも不可解であった。後任にはAlan Whiteの兄であるSteave Whiteなどの名前もあがったが、結局固定のメンバーとしてドラマーを置くことなく、サポートドラマーとして元The BeatlesのRingo Sttarの息子であり、The HillersのドラマーであるZack Sterkeyを起用した。これは、The HillersのフロントマンであるJonny MarrとNoelとの関係から実現したことかもしれない。そして'05年5月シングル「Lyla」をリリースし、同月6thアルバム『Don't Believe The Truth』を発表。「Acquiesce」以来となるGallaghersがヴォーカルをそれぞれ取る「Let There Be Love」は名曲中の名曲。その年のサマー・ソニック'05で大トリを飾った。
デビュー12周年となる'06年、オアシス史上のみならずロック史上に燦然と輝く「Live Forever」「Wonderwall」「Rock 'n' Roll Star」「Don't Look Back In Anger」など20曲を収録する “ドリーム・セット・リスト”『Stop The Clocks』をリリースする。
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'93年結成。Liam Gallagher (vo)、Paul “Bonehead” Arthurs (g)、Paul McGuigan (b)、Tony McCaroll (ds)の学校の友人 ... CDreview
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